このマガジンは「畑のそばに生きる様々な人」と「その暮らし」の紹介を通じて、皆さんと一緒に生き方の選択肢を再発掘していくメディアです。

今回お話をお伺いしたのは岐阜県中津川市に嫁ターンをし、現在「写真家百姓」として農家として、カメラマンとしてお仕事をされている小池菜摘(こいけなつみ)さんです。菜摘さんは中津川市に移住する前は東京の証券会社でばりばりに働いていた時代もあったそう。一見正反対とも思える「畑のそば」という人生を菜摘さんは何を感じ、選んだのでしょうか。そこには「お金」と「自己肯定感」が大きく影響していました。

やりがいだった仕事を体が受けつけなくなる体験

ハタケト:菜摘さん、今日はよろしくお願いします。まずは自己紹介と、菜摘さんのこれまでの経歴を教えてください。

菜摘さんはい。岐阜県の中津川市で「写真家百姓」をしています、Koike lab.代表の小池菜摘です。現在33歳で、同い年の夫と、3歳になる娘と3人で暮らしています。

(photo 小島葵)

菜摘さんこれまでの経歴ですが、ファーストキャリアは中堅の証券会社で3年ほど勤めていました。機関投資家の営業を1年、そのあと日本株式のセールストレーダーを2年ほど。証券会社に勤めたのは、当時わたしが好きだったものが「お金」だったから。(笑)

学生時代に株をやっていたこともあり、強みを活かせると思いました。

当時の働き方はというと、5時に起床してアメリカのマーケットチェック、6時家を出て満員電車に揺られ出社。9時から営業、マーケットチェック、事務作業などを行い、23時に帰宅する、というのが平均的。もともとショートスリーパーで、3時間寝れば十分という体質ではありましたが、これを土日も休まず365日続けていたので、今思うと恐ろしいですね。とはいえ、仕事にやりがいを感じていましたし、会社もお客さんも大好きでした。

(お客さんにもよく「頭おかしい」って言われてた毎日のメモ。当時はスマホもなかったので…)

ハタケトまさにばりばりのキャリアウーマンですね。現在の「写真家百姓」というスタイルとはなんだか程遠い印象を受けます。どのような転機があって、今に至るのでしょうか。

菜摘さん大きなきっかけは東日本大震災です。あの大地震がおこった時、わたしはいつも通り東京の職場にいました。揺れがおこると、当時大好きだった会社や大好きだったお客様が豹変したんです。株の世界は、値幅(最安値と最高値の差)が少ないと儲かりづらいんですが、逆に値幅が大きければ、上がろうが下がろうが儲けを生み出しやすいんです。
震災の最中は、近年見ないくらい動きました。この状況でおまけに3月、期末の成績に必死なお客様の態度はみるみるきつくなり、声も大きく変わりました。「いつもは穏やかな人がこんなにも変わるんだ。」と衝撃を受けたのもつかの間、モニターがバタンバタン倒れてくる中で、とにかく必死で、取引に集中していました。ミスをしたら、何千億円が飛ぶ世界なので…。

その瞬間にいのちが失われていることを気にかけている人は、そこにはひとりもいませんでした。

だいたいの取引が終わってから、「にげろ〜〜〜〜〜」という声が会社でかかりました。「え、モニターも倒れなくなったのに、逃げるの?」と疑問を抱えながら逃げつつ「わたしたちの誰かが死んでいたらどうなってたのだろう。今わたしが感じている悲しみは、このひとたちには理解されないだろう。一体これは何なんだろう…。」とやるせない気持ちになりました。その日、7時間かけて自宅まで歩いて帰りながら、退職を決意しました。

(歩きながら撮った、TOKYO)

ハタケト:壮絶ですね…。

菜摘さん:その日は金曜日。当時付き合っていた夫と一緒に、千葉のわたしの家まで歩いて帰っていました。同じ職場だった彼も「うまく言えないけどこれは人間的にありえないよね」という気持ちに共感してくれて。実際どうするかを土日を通じてじっくり考えました。
結婚を控えていたので、もうちょっとがんばろうと思い、日々変わらない仕事をするように努めました。しかし、うつ病になって起き上がれなくなり、半年のあいだ休職しました。その間に予定通り結婚し、寿退社をした主人が京都でやりたい仕事に就くことができたので、大阪に帰りました。わたしの治療もかねて。

(その頃。連絡が取れると、家族や友人が連れ出してくれました。パジャマでコストコ。)

人生のどん底から救ってくれた「畑」の存在

ハタケト:一度は大阪に帰っていたのですね。大阪では何をされていて、そこからなぜ中津川に引っ越しすることになったのでしょうか。

菜摘さん:しばらくは何もできなかったのですが、大阪で徐々に心を取り戻していくなかで、わたしのやりたいことは「写真」だと改めて気づきました。写真は幼少期からやっていて、「お金」の次に好きなものでした。

(駆け出しの頃。ただ、ただ、写真が楽しかった。photo 前沢芽)

菜摘さん:ところがわたしの休職と主人の転職と結婚と引っ越し。ただでさえお金がなかったので、とりあえず証券会社の大阪の支店で復職して、なんとか生活をと思った矢先に念願の妊娠が発覚しました。「大切に…」と言うわけにもいかず、怒号の飛び交う支店内で、やったこともない仕事を覚えるのに必死でした。復職したばかりで迷惑はかけられないという思いもあって、人一倍動いていたためか、すぐに流産しました。
夫と二人、本当に涙が枯れるまで泣いて、本当にこどもが欲しくて結婚したわたしたちにとっての優先順位を改めて考え、お金よりもやりたいことを優先しようという、夫婦の基本認識ができました。
そうしてわたしはやりたいことである「写真」を仕事にしたのですが、いきなりカメラマンを名乗り始めても、当然簡単に稼げるわけもなく、すぐに貯金が尽きました…。

その頃、同時期に主人の実家の農地を売却する話が出て、ピンチ。彼がゆくゆくは実家の農業を継ぎたいと思っていることは知っていました。中津川で1から頑張ろう、と意見が一致し、継業Uターン&嫁ターンをすることになりました。

(中津川の町並み)

菜摘さん:そして中津川に行ってすぐ、2回目の流産を…。「もうダメだ…。」となったときに、そこにあったのが畑でした

ハタケト:「そこにあったのが畑だった」というのはとても興味深いので、もう少し詳しく教えていただけますか。

菜摘さん:中津川に移住したとはいえ、わたし自身はもともと農業をやる気は全くなかったんです。中津川に行ってからも、カメラマンで食べていこうと思っていました。しかし縁もゆかりもなくてそれどころではない上に、流産もあって精神的に落ち込み、当時は中津川の方々の言葉も分からなかったので、家にこもりがちになりました。「どうしよう、あ〜もう死にたいな〜」という気持ちになっていたのですが、ある晴れた日になんとなく久しぶりに外にでたら移住して以来手つかずだった畑が目に入りました。そこで土に触ると、なんとなく気が楽になったんです。

(その頃の畑。友人の子と。)

菜摘さん:その頃、夫が初めて作った作物もできていたので、それを食べたら、おいしいさがお腹に沁みて。「わたしも畑をやってみようかな」という気持ちになりました。

ハタケト:では、旦那さんの畑を手伝い始めたということですか。

菜摘さん:いえ、大きなメインの畑は車で行かないといけないところだったので、夫とは別で、家の前のその畑をひとりで家庭菜園として耕しはじめました。普通にホームセンターに種を買いに行きましたよ。最初は二十日大根を作ってみて、「あ、おいしい。」という感じで。

畑でもらった元気で勇気を出して地域のひとたちと接して、写真のお仕事をいただいたり。写真のお仕事で行った先で「農家の嫁で」って話をするとなぜかすごく褒められて。すこし頑張って、得た力で写真や農業を営んで。そうやって畑からもらった力を循環させて少しずつ元気になっていきました。

(農的な写真を撮るのも、エネルギー回復になります)

菜摘さん:特に農業は、やったらやっただけの成果が得られることが多いです。何より、その成果は食べれますしね!成果がちゃんと返ってくる体験を積み重ねるうちに「ちゃんとわたしやってるじゃん」と徐々に自己肯定感が芽生えはじめました。

しばらくしてこどもを授かり、無事出産ができてからは、もう気持ちが落ちることはなくなりましたね。今では「写真と農業が仕事です!」と堂々と言えるくらい元気だし、できることも増えました。

好きなこと、求められること

ハタケト:現在菜摘さんは農家とカメラマン以外にも様々な働き方をしていますよね。その経緯も教えていただけますか。

菜摘さん:今の仕事は、農家とカメラマンの他に写真系の講師や金融系の講師、移住定住の文脈で行政のアドバイザー、金融系のコンサル業、そして菓子惣菜工房の運営などをしています。

(菜摘さんが代表をつとめる菓子惣菜工房で生まれたクッキー)

菜摘さん:もともとは「カメラマン一本で生きていきたい」とスタートを切ったのですが、なかなかうまくいかなくて。そんな時、知人からフィナンシャルプランナーを紹介してくれないかと相談を受けたんです。話を聞いてみると、わたし自身がお役に立てそうだなと思い、仕事として受けるようになりました。今も個人事業主の方の財務諸表をつくるような仕事もしています。証券会社から個人事業主になって、家計もみているので、マクロなビジネス視点を個人に応用しつつ、家計的な相談にものれるというポジションは意外と貴重みたいで。移住の相談についても、自治体は若い子育て世代を誘致したいという思いがあるので、女性で、出産をしていて、都会から移住してて、自然と共存してて…となると他にあまりいない分、白羽の矢がたちやすかったようです。

(中津川市の移住相談窓口での仕事)

ハタケト:もともとは「カメラ一本で」というお気持ちがかなり強かったように聞こえたのですが、なぜそのように色々な仕事を受けるようになったのでしょうか。

菜摘さん:仕事の価値観が変わったというのが大きいです。すきますきまに現れる需要に応えていく中で、仕事は感謝されることをすることだなと思えるようになりました。よくよく考えると、カメラを始めたのも人の役に立てることがめっちゃ好きだからでした。それが職業としての「カメラマン」に自分で固執してしまっていたのですが、今は職業ではなく、それをやることで周囲のひとがHAPPYになるかどうかで、やるかやらないかを決めています。思いつく限り誰一人HAPPYにならないのであれば、ギャラがよくてもその仕事はやりません。

(畑での様子)

「お金」の優先順位を下げてみたら…昇り調子の人生が待っていた

菜摘さん:仕事の価値観が変わるきっかけも、やはり東日本大震災です。それまでは「お金こそが正義」と思っていたのですが、自然災害に見舞われると、突如資産が意味を持たなくなります。「資産とは?」と疑問がわき「お金こそが正義」という価値観に疑いをもつようになりました。その後、大阪でいろんな人のお金の向き合い方に触れ、「どうやらお金じゃないぞ」と感じるようになり、中津川に来て、それを確信しました。

当時は、「幸せはお金で買える」「お金を使えば幸せになれる」と思っていたように思います。ところが、中津川ではお金をたくさんもったところで買う意味のあるものがないんです。(笑)仮にブランドのバッグを持ったところで誰にも何とも思われませんし、ベンツに乗ろうが何も言われません。お金は人生の優先順位ランキングから自然と外れましたね。

ハタケトもともとは「お金が好き」と言っていた菜摘さんにとって、ものすごい大きな変化に感じます。

菜摘さん:今思えば、自己肯定感がなかったからこそお金が欲しかったんです。今まで自己肯定感ゼロの人間だったので。だからこそ、今のわたしの暮らし方を誰かにおすすめするのなら、自己肯定感の低い人におすすめしたいです。

だって、職業が「農家」というと、それだけで肯定されるんです!否定から入る人は今のところ一人もいません。

わたしがうつ病を克服しつつあったある日、里芋の袋詰めをしていました。体がだるかったので、ゆっくりゆっくり進めていましたが、それだけで「1万5千円分」の価値を生産できました。

(袋詰めをする様子)

菜摘さん:証券会社の頃はもっと大きな単位のお金を動かしてはいましたが、実際手数料で考えると1億円動かしてやっと10万円会社に入るような感じでした。数字は大きくても、それは「虚無」みたいなもの。しかも、いくら動かしたかによってわたしの給料は変わらないんです。農業の場合は、手を動かすこと、心を寄り添わせることがダイレクトに自分の利益になります

袋詰めに限らず、農業はやることのひとつひとつが何かのためになっているんです。なんのためになっているかはつどつど違うんですけど、わたしの行動が確かに未来のだれかのためになると思える。それを積み重ねていくと、どんどん自己肯定感は上がっていきました。

今は、「今が一番楽しい」と自信を持って言いきれます。

(菜摘さんのインタビューはここまで)

お金が好きで、お金を扱う仕事についていた菜摘さんが、人生の優先順位からお金を外すことで、自己肯定感を持って「今が一番楽しい」と思えるようになったという今回のお話は、現代の暮らし方に対するいろんな問いかけがあるように感じました。

小池菜摘さんには今後、ハタケトで「畑の魅力伝道師」としての連載もしていただきます。そこでも大きく変わった暮らしの価値観について、そして今実践されている中津川での暮らしについてご紹介いただければと思います。ぜひこれからの連載もご覧ください。