岐阜県中津川(なかつがわ)市の写真家百姓で、Koike lab.代表の小池菜摘(こいけ なつみ)です。畑の魅力伝道師の中では現在唯一の農家。畑に生かされている人間として、なにをお伝えできるかなぁ、なんてずっと考えながら、今日もいのちを愛でています。

ハタケト、今。

暖冬つづきだったはずの昨今には新鮮な、雪の冬。

「むこうから風が変わったで降ると思ったけれども、こんなちょこまか降られちゃかんかないでいかんねぇ(どうしようもなくてこまっちゃう)」
もうほとんど歩けなくなった義祖母が、わたしの前を這いながら笑う。

畑に雪が在ると、作業効率がすごく下がる。
忘れてはいけないけれど、雪も水で、そしてつめたい。容赦なく指先の温度を奪っては、泥しぶきをこちらにやって、足をとる。
それでもわたしにとって「かんかない」なんてことはない。どうしようもないってことはほとんどないのだ。

雪が降って畑がドロドロになったなら、写真を撮ればいいじゃない。
写真を撮るのがつらいほど寒ければ、加工場に籠もってお菓子を焼けばいいじゃない。

今日はどんないのちを愛でようか、って選択肢で始める一日は、いつだって良いものだ。

(2021年1月の定点観測)

いのちはすべて、愛せばいい

(model:小島葵)

畑のそばにいると、膨大な数のいきものの生き死にに出会う。
毎日毎日、たくさんのいのちの輝きを見ては、翌日ささいなことでそれが息絶えているのを目にして悲しくなるこころは、きっとこのままでいい。

都会で生きていたときにもそれは頻繁にあることだった。
街路樹が人間の意に反する方向に伸びていく時も、またそれが切られる時も。
日本橋の真ん中にある公園の足下でたんぽぽが咲いていた時も、蝉の死骸を見る時も。
母親の抱っこ紐におさまった妹のベビーカーになぜか乗っているランドセルを抱えたお兄ちゃんが「俺、政治家になってベビーカーは畳まなくていいようにするから!」と声高に叫んでいた時も、死んだ魚の眼をした若者と満員電車の向こう側で目があった時も。

いのちは全て、愛していい。
自分の意図しないことを、あなたが知らないことを、わからないことを、やらかすいのちも丸ごと全部。

あなたは何か高尚なことをしようとしていないだろうか。
もし、この生きづらさから逃れたいと思っているたいせつなひとが目の前にいるとして、それを助けるすべはないかと頭の引き出しをかたっぱしからあけて探そうとはしていないだろうか。

他人がなにか、できることなんてそうたくさんはないのだ。
こたえも、ただしさも、個人の中にしかないのだ。
無力な人間ができることは、今日も目の前のひとを、いのちを、愛することだけだ。

いしかわ農園

いのちを愛して暮らす方法

愛は偉大だ。

あたり前のことだけれど、もう一度いう。
愛は偉大で、最強なんだ。

そのことばの意味や実情について、一部をたぐり寄せてみただけでも相当な考察が世の中には存在する。
オススメの解釈は「愛=みとめること

極端なことを言えば、愛しているから殴るのだ、が通用しなくなった現代でも、本当に愛があるなら殴ってもいいと思っている。そして、本当に愛があるのなら、殴らないという結論になることがほとんどであろう、とも思う。

目の前の存在が想定していなかったことをして、それがひとに迷惑をかけたり、法に触れたり、将来的に本人が困るようなことだったとしても。
目の前のいのちをみとめてさえいれば、殴ることはできない。

そのいのちはそこに在るべくして在ることを思えば。
「みとめられないことが起きたからって喚くんじゃねえ、自分の想像力の無さを恨め」
「自分がわからないからって否定することは許さねえ、それはわからないあなたの知識不足。お勉強なさい」
って言いたくなる、そんな感じ。

すべてのいのちを愛すること。
それは全ての存在をみとめること。
自分の人生の主たるいのちは、先ずあなた自身。

自分をみとめたら次は、
「OK、きみはそうだ。わたしはこうだ、だからこうしよう」

すべてのいのちを愛して生きる日々は、かならずあなたをしあわせにするよ。
たのしみだね。